19世紀初頭にラマルクは著書『動物哲学』の中で、世界最初の進化論を発表しました。キリンの首が長くなった理由を彼は次のように説明しました:「キリンは高い木の葉を食べるために生涯を通じて首を伸ばし続けるので、首が発達する(用不用説)。この「発達した首」という獲得形質は子孫に遺伝する(獲得形質の遺伝)。こうしてキリンの首は徐々に長くなった」。以来、200年以上経過しましたが、ラマルク説を裏付ける実験的証拠は得られず、その後長い間、「獲得形質は遺伝しない」ことが常識になってきました。しかしこの常識は今、変わりつつあります。
最近、進化生物学者の更科功氏は、世間には「いかなる獲得形質も遺伝しない」と誤解している人が多いが、この誤解は「獲得形質の遺伝」の定義が分かりにくいことに原因があり、その責任は生物学者にあると指摘しています1)。例えば、岩波生物学辞典(第5版)の獲得形質の遺伝の説明には、「一般に獲得形質の遺伝といえば、体細胞に生じた変化が遺伝的になることを指し(以下略)」と書かれています。つまり、獲得形質の遺伝とは、「体細胞が後天的に獲得した形質が遺伝すること」(以下定義A)であって、「(細胞の種類を問わず)後天的に獲得した形質が遺伝すること」(以下定義B)ではないのです1)。定義Aのように、対象を体細胞に限ってしまえば、獲得形質は遺伝しません。しかし実際には、定義Aから除外された細菌などの単細胞生物や、多細胞生物の生殖細胞は当然、獲得形質を遺伝します。そして生物は、獲得形質を遺伝することによって進化します。獲得形質の遺伝の否定は進化の否定を意味します1)。
20世紀の後半は細菌の獲得形質の遺伝の研究が盛んでした(例:抗生物質耐性菌の研究)。一方、今世紀に入ってからは、多細胞生物における獲得形質の遺伝を示唆する実験的証拠の報告が相次いでいます。ラマルク説が正しかった可能性があるのです。以下報告順に、ヒト、ショウジョウバエ、ラット及び線虫における獲得形質の遺伝の例を紹介します。なお、体細胞に限定された定義Aでは、これらを扱えないので以下は定義Bを採用して記述しています。
第二次世界大戦末期の1944年暮れのことです。当時フナチス・ドイツはランスからは殆ど駆逐されていましたが、オランダはまだナチスの支配下にあり、ナチスはオランダ国内のレジスタンス運動に対抗するため、オランダ西部への食糧の搬入を制限したため、オランダ西部は深刻な食糧不足に陥りました。これがのちに「オランダ飢餓の冬」と呼ばれる悲劇を生みました。
アムステルダムを含むオランダ西部の主要都市では、住民の大半が必要カロリーの半分にも満たない一日1000キロカロリー程度しか食料摂取ができず、翌年5月にドイツが降伏するまでの約7ヵ月間続いた飢饉により、450万人が深刻な影響を受け、2万2000人の住民が餓死しました。
その飢餓のさなかにも約4万人の新生児が誕生していました。飢餓を経験した住民がオランダ西部に偏っていたため、終戦後、母体の極端な栄養不足が子供の長期的な健康に与える影響の追跡調査が東西オランダ人の比較により行われました。この調査は悲劇から80年が経過した現在も続けられています2)。この研究の結果明らかになったことは、飢餓のさなかに生まれた子供は出生時の体重が軽く、病弱な傾向を示し、成人後は逆に、高頻度で肥満になり、糖尿病の罹患率が高く、統合失調症の発症率が通常の約2倍高いことでした。しかし、真に驚くべき所見は、母親の胎内で飢餓を経験した子どもたちに観察された高頻度な肥満などの病的所見が、彼らの子供たち、つまり孫世代にも高頻度に認められたことでした。このことは母体の飢餓の影響が、その子供たちの生殖細胞を通じて孫世代に遺伝したことを意味します2)。
2011年、理化学研究所の研究グループは、ショウジョウバエを用いて獲得形質の遺伝と、そのメカニズムを世界で初めて報告しました3)。野生型のショウジョウバエの眼は赤色ですが、変異種の白い眼のショウジョウバエの受精卵に対し、発生の初日に適切な条件で熱ストレスを与えると、その個体は赤眼となり、それらの子世代も高温処理なしで赤眼化しました。ただし、孫世代は赤眼化せず、この遺伝は、DNAの塩基対の書き換えを伴わない(エピジェネティックな)遺伝であることが分かりました3)。この現象のメカニズムを調べたところ、ヘテロクロマチン(染色体上でDNAがヒストンと結合して凝縮し不活性化された領域)が熱処理によって構造が弛緩し、抑制されていた調節因子dATF-2が活性化され、抑制されていた赤眼遺伝子が活性化されて赤眼化することがわかりました3)。
2014年、米国のエモリー大学の研究グループは、ラットを用いて獲得形質の遺伝を明らかにしました。ラットにアーモンドに似た匂いと電気ショックを同時に与えて、匂いに反応して忌避反応するように学習させ、この学習したラットに子を産ませ、生まれた子に同じ匂いをかがせたところ、学習させていないにもかかわらず子も匂いを嗅いだだけで身構える忌避反応が認められました。すなわち、親の経験が子に遺伝することが分かりました。この親子のラットの匂い受容器を調べたところ、この匂いに対する受容体が共に増加していました。この忌避反応は孫世代には遺伝しませんでした4)。
2017年、京都大学理学部生命科学研究科の研究グループは、線形動物の線虫C.エレガンスを用いて獲得形質の遺伝のメカニズムを明らかにしました5)。線虫を適度なストレスにさらすと、ストレス耐性が形成され、寿命が長くなるなどの好ましい効果が得られます(これをホルミシス効果と呼ぶ)。実験に用いたストレス因子は、個体発生の初日の短期の絶食、重金属塩(亜ヒ酸塩)、および高浸透圧(NaCl)への曝露でした。あらかじめホルミシスを引き起こすことが確認されている実験条件で処理した雌雄同体の成虫を自家受精させて得たF1子をストレス処理なしで飼育したところ、F1子にもホルミシス効果が認められました。さらにF1子同士を交配させて得たF2子にもホルミシス効果が認められましが、F3子にはホルミシスは認められず、これらの結果から、ストレス耐性はDNAの塩基対の書き換えを伴わないエピジェネティックな変化の遺伝であることが確認されました。続いてこの現象のメカニズムを解明するため、WDR-5(注:ヒストンH3リジン4トリメチル化修飾を担うタンパク質複合体の構成因子)をノックダウンしたところ、ストレス耐性の次世代への遺伝が抑制されたことから、線虫の親の獲得形質の遺伝に、ヒストン修飾因子が関与していることが確認されました。次に、線虫の組織ごとにWDR-5をノックダウンしたところ、WDR-5が生殖細胞で機能することで形質の遺伝を制御していることが分かりました5)。
上記は以下の4点にまとめることができます:①多細胞生物でも獲得形質は遺伝する。②遺伝される獲得形質は母体への環境負荷が胎児に影響して、あるいは発生初期の個体に対する直接の環境刺激によって形成される。③獲得形質の遺伝は生殖細胞のエピジェネシックな変化の遺伝である。④獲得形質が遺伝する世代数は、動物種や実験条件で異なるが、最長でも孫世代までである。
これらの獲得形質の遺伝の意義は、環境ストレスに対する種の耐性反応であると考えられます。第4項のホルミシスはまさにその典型例ですが、第1項の「肥満」も、飢餓が日常的に存在する環境では生存に有利な形質になりえます。例えば過去約百万年間の北半球は、1-2万年間の温暖期と8-9万年間の氷河期とが、約10万年の周期で訪れており、両時期の平均気温は約10℃変化しています。このような比較的短期の気候変動に対し、通常の進化では対応できないと考えられます。多細胞動物の進化には最短でも数十万年単位の時間を要するからです。その点、エピジェネティックな獲得形質の遺伝による適応ならば、リアルタイムで適応できます。なお、獲得形質の遺伝が最長でも孫世代までと、持続性に問題があるかのように見えますが、これは実験の環境刺激が1回だけの場合であり、気候変動のように環境負荷が世代を超えて持続すれば、環境ストレス耐性反応も各世代で形成されるため、耐性反応も安定的に継続すると考えられます。すなわち、環境ストレスに対応する獲得形質の遺伝は本格的進化に代わって種の絶滅の回避に貢献してきたと考えられます。
(引用文献)
1) 更科功:『世界一シンプルな進化論講義 生命・ヒト・生物――進化をめぐる6つの問い』 講談社ブルーバックス(2025)
2) 池田清彦:『驚きの「リアル進化論」扶桑社新書(2023)
3) Seong H, et al. Inheritance of stress-induced,ATF-2-dependent epigenetic change. Cell. 2011, 145,1049-1061. doi: 10.1016/j.cell.2011.05.029.
4) Dias BG and Ressler KJ. Parental olfactory experience influences behavior and neural structure in subsequent generations. Nat Neurosci. 2014, 17, 89–96. doi: 10.1038/nn.3594
5) Kishimoto S, Uno M, et al. Environmental stresses induce transgenerationally inheritable survival advantages via germline-to-soma communication in Caenorhabditis elegans. Nat Commun. 2017, 8, 14031. doi: 10.1038/ncomms14031
表題の「目に見える進化」とは、研究者が生涯の間に確認可能な進化と定義しています。前回に引き続き今回も、人類が気づかない間に他の生物を進化させていた事例を3つ紹介します。
表題の「目に見える進化」とは、「研究者が生涯の間に確認可能な進化」と定義しています。第90話で紹介した「ダーウイン・フィンチの嘴の進化」は、遺伝子の変化を伴っておらず、数年後には消失しましたが、今回は突然変異と自然選択を伴う進化ですが、人類の活動が関係する例です。
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